こんにちは、あんずだいだいです。読んでくださって、ありがとうございます。
グループホームで暮らす息子とは、連絡がないまま2か月くらい過ぎることも、普通にあります。こう書くと「えっ、心配じゃないの?」と思われるかもしれません。
でも私、この距離感がけっこう心地いいんです😊
今日は、そんな私たち親子の「距離」のお話です。
週に一度、必ず鳴っていた母からの電話
私がこう思えるようになった原点は、実は、私自身の母との関係にあります。
私の母は、週に一度、必ず電話をかけてくる人でした。それが愛情だったことは、今ならわかります。でも正直に言うと──当時の私には、それがうっとうしくて仕方なかったんです(お母さん、ごめんなさい笑)。
電話が鳴るたびに、見えない紐でしばりつけられるような感覚。「執着される」ということが、子どもにとってどれだけ重いものか。私はそれを、身をもって体験していました。
そして今、振り返って思うのです。私があんなに母からの電話を重く感じたのは──私自身が、もう「自立」していたからなんだと。自分の足で立って歩いている人間にとって、親からの執着は、愛情というより”紐”になってしまう。そういうことだったんだと思います。
だから決めていました。「息子に執着しない」
そんな体験があるからでしょうね。息子に対しては、自然と決めていたことがあります。
それは、「執着しないこと」。
そもそも私自身が、親には用事がなければ連絡しない子でした(笑)。だから息子から連絡がなくても、「そういうものだよね」と自然に思えるのかもしれません。
本当に眠れないほど心配したのは、あの頃だけ
「連絡がなくても不安にならない」と書きましたが、もちろん例外はあります。
息子が統合失調症と診断された頃──症状がいちばんひどかった時期は、本当に心配しました。家に帰って来られなくなって、警察のお世話になったこともあります。あの頃は、夜も眠れませんでした。
でも、あれは「連絡がないから不安」だったのではなくて、「息子の身に何かが起きているから心配」だったんですよね。
今の「連絡がない」は、それとはまったく別のもの。むしろ、息子が自分の生活を自分のペースで送れている、ということなんです。
今の距離感──連絡は、用事があるときだけ
今、息子から連絡が来るのは、本当に用事があるときだけ。私からは「一緒にごはん食べたいな」と思ったときに、連絡するくらいです。
以前、「旅行に行こうか」と誘ったときには、「俺、一人で行きたいんだけど」と言われたことも(笑)。「あ、そう」と返して、「じゃあ私も一人で行こうかな」と思いました♪
……と、さらっと書きましたが、正直、ちょっと残念でした(笑)。
私ももう60代。息子と一緒に過ごせる時間は、これからだんだん少なくなっていく──これは私が勝手に思っていることなんですが、だからこそ、記憶に残る時間を増やしたいなという親心は、やっぱりあるんです。
でも、息子には息子のペースと人生がある。「私を今、必要としていないなら、そうなんだ」と、ただ自然に、そう思っています。
連絡がない日々に、「自立しようとする姿」が見え隠れする
息子は、今でも調子を崩すことがあります。以前の記事にも書きましたが、心配が消えたわけではありません。「調子が良くない」と聞けば、やっぱり気になります。
でもね、こうも思うんです。
調子が悪くなったときでさえ、息子から連絡が来ないのは──息子なりに、自分の生活を自分でなんとかしようとしているからなのかな、と。
本当のところは、本人にしかわかりません。でも、連絡がない日々の向こうに、自分の足で立とうとしている姿が、見え隠れする気がするんです。それって、母として、本当に喜ばしいことだと思うんです。
かつての私が、母からの電話を求めなかったのと、きっと同じ。連絡がないのは、寂しいことではなくて、息子が自分の人生を生きようとしている証拠なんですよね。
だから私は、心配を抱えたままでも、私の時間を丁寧に過ごす。それが私なりの「心の整え方」です。
さいごに──連絡がないのは、喜ばしいこと
「連絡がないのは元気な証拠」という言い方もあるけれど、私の実感はもう少し深いところにあって──連絡がない日々の向こうに、自立しようとする息子の姿が見え隠れする。「息子は息子の人生を、私は私の人生を生きている」。ただ、それだけなんだと思います。
執着しないことは、冷たいことでも、あきらめることでもありません。むしろ、信じているからこそ取れる距離なのかな、と。
今日も、息子から連絡はありません。それは、息子が自分の足で立とうとしている証拠。母として、こんなに喜ばしいことはありません😊
私は今日も、私の時間を丁寧に過ごします。
今日も読んでくださって、ありがとうございました。

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